大蓮寺の歴史

大蓮寺の歴史は、今から418年前の天正14年(1586年)3月25日、法性房日妙上人によって開山されました。

当初は若草町鏡中条の地にあって、27世まで法灯を若草町で継承されてきました。

             

一方、韮崎において、明治14年に妙法講社が、16名の信徒によって設立されたのでした。その妙法講社の信徒は、年々増加して、明治21年(1888年)には140名となり、同年6月21日には、妙法講社を改めて妙法教会としたのでした。

しかし、信徒が増大するにつれて、新たに寺号と住職を切望するようになりました。そこで、新しく寺を建立することを願い出たのですが、明治維新後の廃仏毀釈政策により、新寺建立が一切認められず、代表者が身延山に詣でて何とか願いが成就できるようにと嘆願したのでした。


 

いろいろと思案をした結果、若草町にあって檀家が少ない大蓮寺を移地転寺することになったのでした。2年後の明治23年(1890年)4月、現在の地に修瑞山大蓮寺が誕生したのでした。その時に山号を修随山から修瑞山に改字されました。妙法教会という名称は、正式には2年間しか使われていませんでした。

若草町にあった頃の大蓮寺は、甲府市の饗場豊吉(脇本陣をしていた大竹屋の子孫)氏の保存する「大蓮寺所有物件寄付願」(参考資料1)によると、境内地375坪あり、その中に5間の5間半の大きさの本堂と、2間の2間半の大きさの清正堂が建立されており、その他に田が1289坪、畑が267坪所有していたのですが大蓮寺を韮崎に移すに当り、本寺の長遠寺に所有財産の全てを寄付して、裸一貫で韮崎に法華経の布教拠点を求めたのでした。

その時、現在の場所に堂宇を建設するにあたり、敷地並びに建設費などに多大な貢献をしたのは、本願人として饗場豊吉氏、岩下丑五郎氏、滝田啓蔵氏、饗場由蔵氏、花輪与一右衛門氏、山寺好太郎氏、阿部文兵衛氏、信徒として源村塩ノ前の塩谷宇吉氏などが進んで浄財を喜捨したのでした。

明治37年発行の「日本社寺明鑑」(参考資料2)によると、移転当時の境内地は間口が現在の倍以上の広さがあり、白壁に囲まれ、木も植えられ、お寺らしい雰囲気が感じられます。この図面の建物は、良く見るとほとんどが設計中となっており、完成しているのは貸長屋だけのようです。

しかし、その時の本願人の財力そして熱意から推し量って、けっして実現不可能なこととも考えられないので、その当時の社会情勢(日清・日露戦争)などのため、計画を変更したのだと思います。

韮崎に移転した時の住職は、第28世望月義悦日正上人で、20代の若さで名声高く、前述の本願人たちが身延山に願い出て住職となってもらったとのことです。

日正上人には数十人ものお弟子がいて、韮崎地区の布教に努められ、数々の法力を発揮して檀家を増大させ、現在の大蓮寺の発展に多大な功績を残しています。その後、29世高見義竜上人、30世望月義見上人、平成元年の2月3日に遷化した31世望月義純上人、そして現在の私が32世と法灯が続いているのです。

現在の大蓮寺は、境内地が戦後の農地解放その他により狭くなり、特に表の入口の方がかなり狭くなってしまったようですが、皆様御存知のように、31世の義純上人の時に、櫨家のご協力を得て本堂、書院、客殿などが完成して、図面のような景観に近付いてきました。また、第32世の時には、日蓮聖人像並びに縁切り地蔵が建立されました。